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安西:当時、ベルギーのブリュッセルに事務所がありましたが、駐在するには10年以上が必要で、そこまで待っていられないと思いました。同時に、当時の重役が「君のやりたいことは、この人がやっているよ」と、宮川秀之さんを教えてくれました。

彼はジョルジェット・ジウジアーロという世界的なカーデザイナーとともにデザイン会社を作り、ヒュンダイ・イタリアやスズキ・イタリアなどの会社もつくり経営していました。そして、イタリア人の夫人との間にもうけた4人の子供と、韓国とインド、イタリア2人の合計8人の子供を育てていました。

ほかにも、病気の親を持つ子供を援助したり、イタリアのトスカーナで有機農法の農園を経営したり。彼の活動が記された著書を読み、すぐさま「あなたのところで修行させてくれ」とラブレターを送りました。すぐにOKとは言われませんでしたが、半年ほどアピールを続けた結果、受け入れてくれることになり、退職してイタリアのトリノに渡ることになりました。

中道:トリノでのスタートは、宮川さんの仕事の手伝いでしたか。

安西:まず自分自身のやりたいことを探せという課題をもらい、半年ほどは昼間からビールを飲んで自由にしていました。ただ、ぶらぶらしていると、だんだんと仕事をしたくなるものです。

当時の宮川さんはトスカーナに日本とイタリアの文化センターを構想していて、それならイギリスやドイツといった国では、日本文化がどのように研究されているかを調べてみようと、イギリスの大学をたずねたりしました。

同時期にジウジアーロがジュネーブモーターショーに出展したスーパーカーを、50台限定で生産するという話が持ち上がりました。ちょうどバブル期で、トリノのボディメーカーで1台1億円の車を生産することになり、僕自身はよくわからないまま、生産管理や品質管理の経験を積ませてもらいました。


デザイナーのジョルジェット・ジウジアーロ(2020年撮影)

当時、「1台1億円の品質なんて、僕にはわかんないですよ」と宮川さんに言うと、「君の目で見ればいい」と。どういうことかと思わないでもありませんでしたが、自分なりに車に対してコメントし、宮川さんとのやり取りを繰り返すうちに車づくりの基本が叩きこまれていきました。

中道:スタートは車であるものの、日本の文化とヨーロッパの文化の接点にも興味を持たれていくわけですよね。

安西:そうですね。宮川さんのもとには3年ほどいて、その後に独立してミラノに移りました。

僕がやりたかったのは、車と都市計画の同期でした。車メーカーは都市計画を考えず、都市計画から考えた車はつまらないデザインばかり。当時の僕は、車と都市計画がうまくリンクしていないと感じていました。

ただ、その話を宮川さんにしたら、「君がその話をするには早すぎる」と言われました(笑)。

文=小谷紘友 編集=鈴木奈央

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