Close RECOMMEND

最先端の経済誌「Forbes JAPAN」の記事紹介

川村雄介の飛耳長目

そのとき、私は上司からこっぴどく叱られた。「君は会社のおカネで留学させてもらいながら、こんな意味のない勉強をしていたのか」。彼の机上には私の修士論文が乱雑にめくられている。表題に『インサイダー取引規制の研究』とある。ちょうど40年前のいまごろだった。

米国の市場規律の厳しさに驚きながら、夢中で取り組んだ課題が米国証券市場規制、特にインサイダー規制だった。その英文200ページ余りの研究成果を上司に報告しかけた途端、怒声を浴びたのである。

当時の日本にインサイダー規制はあってなきもののようだった。旧証券取引法58条がその根拠とされていたが、米国法の直訳で規定は大雑把だった。証券取引等監視委員会も「国情に合わない」として設置されていなかった。

他方で、米国には詳細な証券取引委員会規則が定められているうえ、何より判例の分厚い積み上げが具体的な規範として機能していた。いくつもの著名な連邦最高裁判決が存在した。

日米でなぜこのような大きな違いがあるのか。日本はこれから直接金融(証券市場)が金融の中心になると喧伝されながら、どうしてここまで異なるのか。素朴だが根源的な疑問にぶつかって選択した研究課題がインサイダーだった。ところが、私の上司は「日本にインサイダーなんかないんだ。無意味な研究だ」と激怒するばかりである。

日本で市場への信頼が軽視されていたわけではなかったが、その本質について突っ込んだ検討が行われていたとも言えなかった。証券取引に従事する証券会社社員は、分厚いテキストを勉強させられて証券外務員資格を取得しなければ業務に従事できず、その基礎は詳細な公正取引ルールにあった。けれども社員たちにどこまで市場への信頼という理念が浸透していたかは疑問だった。

そのころ、ある証券アナリストが真顔でこぼした。「担当するX社の企業レポートは全力で分析したのに業績予測でライバル証券会社のアナリストに負けた。でも仕方がない。ライバル社は法人部門が強力で、X社の内部情報が手に入るからレポート作成も簡単かつ正確なのさ」。いまなら、インサイダー規制違反で一発アウトだが、当時は当たり前のように語られていたものだ。

米国では、インサイダー取引は市場に対する詐欺、という見方が伝統的だった。直接的な成文規制が設けられる以前から、詐欺防止法の解釈から違法とされていた。反対に日本では「早耳情報」でもうけることを自慢する手合いまでいたほどだった。

留学から戻って3年後。部長に出世した件の上司がニコニコしながら私のデスクに寄ってきた。「大蔵省からの依頼なんだが、日本でもインサイダー取引規制を整備するそうだ。証券局にタスクフォースを置く。でも学者を含めてこの分野に明るい人材が見つからず困っている。そこで、君のことを話したら大喜びでね。ぜひ、力を貸してくれ、と。わが社も先見の明ある社員がいて鼻高々だよ」

文=川村雄介

川村雄介の飛耳長目
VOL.60

ロシア国家のDNAか 過ちのプーチンが導く先

VOL.62

はやぶさチームに共通した「神社参り」

PICK UP

あなたにおすすめ