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川村雄介の飛耳長目

国民性を巡っては、昔から百家争鳴、誰もが一家言をもっている。特に日本人は国民性の議論が大好きである。明治維新以降、あまたの論考や著作が世に出て、時代時代を画してきたものだ。高度成長期の司馬遼太郎さんの著作が最たるものだろう。

世界的に叫ばれているデジタル化と、これも世界的なコロナ禍は、日本人の国民性のなかでも、とりわけ2つの特徴を浮き彫りにしている。

特徴その1は、何はともあれの西洋崇拝である。日常生活も企業経営も政治過程も、なべて西洋をよしとする。中国と真逆だ。

19世紀末のころには、欧州に学んで民法典を制定するにあたり、高名な東京帝大教授、穂積八束が「民法出デテ忠孝亡ブ」と叫んだ。一世紀以上を経た昨今では、契約はもちろん、家族のあり方まで大きく変わり、万事がますます西洋型志向を強めている。家族法も変貌しようとしている。当然のすう勢とは思う。だが、穂積のような有力学者が見当たらないのもいささか気にはなる。明治時代よりも西洋信仰が強まっているのか。

かつて西洋は、日本よりもはるかに高度な技術と生活水準を誇り、その社会システムには大いに学ぶところがあった。日本の近代化はイコール西洋模倣であり、その成功が国の発展に大いに資した。

現在でも、西洋に学ぶところは数多くある。優れた点を吸収することにちゅうちょすべきではない。しかし、前世紀末から『失われた時代』が30年も続いてきたせいか、近時の私たちは、ただでも仰ぎ見ていた西洋に対して、卑屈ですらある。その典型がカタカナ文字の異様な増殖ぶりだ。

デジタルの分野は特にそうである。DXから始まって、クラウド、ノーコード、マルウェア等々、枚挙にいとまがないカタカナのオンパレードだ。同じ現象が企業経営の世界にある。ガバナンスはマネジメント・モデルかモニタリング・モデルか? コンプライアンスは? サステナビリティは? あたかも日本語を忘れてしまったかのようだ。コーポレート・ガバナンス・コードにいたっては、「プリンシプル・ベースのソフトローであり、コンプライ・オア・エクスプレインの手法」だそうだが、この定義の8割がカタカナである。

流ちょうな日本語を操る中国人の友人がやゆする。「日本語でいちばん難しかったのは、カタカナ語だった。あれは日本語でも外国語でもないね。意味も発音もわからない。中国語の四声どころじゃない」

文=川村雄介

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