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ドキュメント 教育革命の最前線から


「学びの本質」を捉え直すことが必要


オンラインを利用しての授業、タブレットやパソコンなど端末の導入、AIの利用などにより、利便性は今後も高まっていくだろう。子どもたちの学びの方法や手段は個別最適化を目指しており、選択肢は大きく広がるはずだ。

環境や手段が整えば、これまで学校に来ることが難しかった子どもたちは遠隔で授業に参加できるようになり、教科書やノートでは学ぶことが難しかった子どもたちはタブレット操作によって学びやすくなるだろう。

身体的なハンディキャップも乗り越えられるようになり、障害のある者と障害のない者が共に学ぶインクルーシブ教育に近づいていくのではないかという期待は高まる。

少数派の子どもたちの支援の現場には、以前から1人1人のニーズにあった学びが必要だった。入院している子も、障害のある子も、学校に通っていない子も、1人1人の状況は一律ではない。必要な環境もサポートも、学びのスピードも、誰1人同じではない。

そこには学びの本質が鮮明に立ち上がってくる。子どもたちのいのちの躍動ともいえる学びへ向かう思いに触れ、それぞれの試行錯誤のなかで非常に先駆的な教育にたどり着いてきた事例も多い。

その子にかかわる教員や医療関係者、支援する人や家族などが、目の前の子どもをよく観察し、その子を人として尊重し、時には本人と話し合い、子どものニーズやその意欲をしっかりと捉えながら、その子なりの学び方やその内容、環境などについて、手づくりで創意工夫をしてきた。

その際の子どもたちへの視線や姿勢は、実はすべての子どもたちにとって必要なものだ。新しい道具に振り回されることなく、子どもが主体となってタブレットを使いこなすためにも、いまこそ、マイノリティとされてきた子どもの思いや、彼らにかかわるすべての大人たちがこれまで取り組んできた姿勢から「学びの本質」を捉え直すことが必要だ。

人間は本来「学びたい」生き物だ。環境が整わない子どもたちも、時にはいのちがかかった現場でも、自らの「学びを止めない」ことを望んでいる。「学びたい」という思いは「成長したい」「生きたい」と同義なのかもしれない。

私たちは果たして、子どもたちのそこまでの思いに触れたことがあるだろうか。大人である私たちは、それほどの渇望を「学び」に対して抱いたことがあるだろうか。その思いに触れる前に、過剰なまでに子どもたちを追い立ててはいなかったか。教育産業は、子どもが生まれた直後から親たちの不安を煽り、感じ、考える機会を奪ってはいなかっただろうか。

実際には、マジョリティである「ふつう」とされる子どもたちをみても、1人として同じ人間はいない。それぞれが違う特性を持っているマイノリティである。「ふつう」と呼ばれる子どもたちも、もしかしたら、さまざまな葛藤を抱えながら、我慢してみんなに合わせることができているだけなのかもしれない。それは、私たち大人にも言えることだ。

文=太田美由紀

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