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シネマの女は最後に微笑む


「生」の最中に挿入される「死」


すずが新しい環境に馴染んでいく過程も、季節の移ろいと絡めて描かれる。落葉の道をキラキラした秋の日を浴びて級友たちと歩く光景や、寒い朝に広縁にしゃがんで幸が庭の手入れをするのを見つめる姿、地元の漁港での釜揚げシラス作りへの参加。

特にサッカー仲間・風太の自転車の後ろに乗って潜る桜のトンネルのシーンは、若いすずの生の輝きに満ち溢れてまぶしい。

こうした「生」の最中に挿入されるのが「死」だ。このドラマには、3回も法事のシーンがある。

1回目は前述の、山形で行われた父の葬儀。不幸な女性に同情するあまり15年前に家族を捨てた父の死に、姉妹が悲しみにくれる様子はない。むしろ彼女たちは、唯一の親を失ったすずにかつての自分たちの姿を見出す。ここは、死者を介して出会うべき生者たちが出会う場面だ。

2回目は中盤の、祖母の七回忌。久しぶりに現れた実母と険悪になった幸の毅然とした態度には、妹たちを守ろうとする長女としての強い責任感が滲む。

それを察知した母との和解シーンで、幸から彼女に渡される梅酒の小瓶は、かつては共に暮らした母への「私たちはちゃんと生きてきた」というメッセージだろう。亡き祖母直伝の梅酒は、親が去った後の姉妹たちの月日を雄弁に語る小道具だ。

ここで死者は、かつて別れた生者たちが出会い直す契機となっている。

2回目の法事と3回目の法事の間に、すっかり家族の一員となったすずと幸の、立場の違いやそれぞれのデリケートな思いが描かれる。

三姉妹の中でも父の記憶が鮮明な長女の幸にとっては、捨てられたという思いがある一方、同じ人物がすずにとっては優しい父だっただけに、すずはどこか引け目を感じている。父親を通した関係においては、すずは結果的に加害者側、幸らは被害者側に分断されてしまうのだ。

しかし幸自身も、佳乃から「お父さんと同じじゃん」と指摘されるように、精神を病んで実家に帰っている妻をもつ医師との不倫関係を続けており、道義的に見れば加害者側に立っていると言える。

表向きは優等生然としたなかに、わずかな歪みと鬱屈を抱えた幸と、大人の事情に振り回されて人一倍忖度する子供になっているすず。

幸が恋人との将来について決断する場面はさらりと描かれるが、その後再度すずを深く受け入れる幸の姿に、彼女自身が被害の記憶や加害の苦しみを乗り越えたことが示されている。

終盤近くに挿入されている3回目の法事は、香田姉妹を幼い頃から見守ってきた『海猫食堂』の店主・二宮さち子の葬儀だ。父の時とは打って変わって深い悲しみに浸る姉妹だが、そこには一種の諦観も漂っている。

生のディティールは、死によって縁取られ限界づけられることで一層の輝きを増す。限りある生を慈しみ、今を懸命に生きよ。死者から彼女たちはそうしたメッセージを受け取っていたのではないだろうか。

葬儀の後、喪服のままで海岸の波打ち際を戯れながら歩いてゆく4人の影が、生と死のせめぎ合うなかを生きる私たちの姿に重なってくるようだ。

連載:シネマの女は最後に微笑む
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文=大野 左紀子

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