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ドキュメント 教育革命の最前線から


日本では近代化が過度に進むまで、生まれ持った「学びへの意欲」に突き動かされて学んでいた。学びたいことがあれば自ら師を見つけ、それぞれが個人的に教えを請い、習う。そこには「学びたい」という主体があった。寺子屋がその見本だろう。

現在の学校教育のような形式が始まったのは明治維新の後である。新しい国家を作るためには近代国家に相応しい国民を権威の意図のもとに育てなければならない。

近代国家で役に立つ人材とは、「日本人」という自覚を持ち、日本のために、工場で指示通りに動くことができ、軍隊で命令のもとに規律を乱さず行動できる人間だ。朝礼や体育での「前にならえ」や「休め」の号令も、運動会での行進も、そうした訓練を学校で行なっていた名残である。

近代の学校教育は、私たちの中に組み込まれている「自ずから生まれる学びへの欲求」を大事にせず、国や企業の要請に適応させる特殊なシステムでもあった。言われたことを言われた通りに、しかも「自主的に」できる人間を量産することを社会が求めていたのである。

高度度経済成長期、オートメーション化されたラインの中や分業化されたニーズの一端を担う場では、自分の意思を持ち組織の体制に疑問を呈することは効率を下げることでしかなかったからだ。

その後、経済競争を勝ち抜ける人材を養成することが目標となってきた。このように権威が行く先を決めてくれる社会は、ある意味安定し、楽でもあった。しかし、いま、権威が行く先を見失っている。我々は、何をどのように学ぶべきかを今一度考える必要がある。

大人になって改めて知る学ぶ楽しさ

学校教育を終えて大人になり、社会に出て改めて学ぶことの楽しさに気づいた人も多いだろう。私もまさにその一人である。取材を通して未知のことに出会い、本を読み、興味を惹かれることについて自分で師を探し、自ら選んで習うのは、たとえそれが仕事につながっているとしても、自分だけの趣味だとしても、この上ない楽しみとなる。

あなたにもきっとそんな体験があるはずだ。そのときのきっかけ、そのときの実感、そこに学びの本質がある。私たちは、自分で何を学ぶかを選び、師を選ぶことができれば、自らを育て高めることができる。それはまさに、大前提として子どもたちにこそ保障しなければならない環境である。

文=太田美由紀

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