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サハリン国立大学の歴史教師だったサマーリンさんが、「樺太時代の歴史と文化のモニュメント(1905-1945年)」を著すきっかけとなったのは、学生向けの新しい歴史学科のプログラムを考えるにあたり、サハリンの建築史を取り上げたことだった。調査を進めていくうちに、各地に多くの日本の遺構が残されていることに気がついたのだ。

とくに彼が関心を持ったのは、神社や灯台だった。「ロシア人である私にとって日本の宗教施設のデザインは興味深いものでした。またサハリンには日本人が造った灯台が各地にありますが、このコンクリート製の近代施設には日本的ユニークな特徴が見られ、ロシアの灯台と比較することが面白かった」と語る。

たとえば、日本の灯台には、勤務する人たちが寝起きする部屋が併設されているが、それが畳の間なのだ。これはロシアの灯台にはあり得ないものだった。

1990年代以降は、日本の樺太研究者たちとの共同調査も始まった。日本の研究者たちがもたらす膨大な資料に目を通し、サハリン各地を訪ね歩くうちに、彼は樺太時代の日本の遺構に、歴史的で文化的な価値があることを強く意識するようになったという。

1960年生まれのサマーリンさんは、日本の遺構に関する自らの過去の認識をこう率直に話す。

「私の父はトマリにある旧王子製紙工場で働いていました。子供の頃には身の回りにたくさんの日本の遺構がありましたが、当時はその意味を知りませんでした」



イーゴリ・アナトリエヴィチ・サマーリンさんは1960年トマリ(当時の日本名:泊居)生まれ


ソ連時代に静かに進行した、住民に対しての樺太時代を忘却させる施策がもたらした結果ともいえるだろう。どこまで積極的に行われたかについてはともかく、この時代、ソ連では樺太時代の歴史を教えられることはなかった。

それでも、少なくとも1970年代までユジノサハリンスク市内には、日本の住居はかなり残っていたという。とくに寺院などは、商店や理髪店として使われていたとサマーリンさんは話す。

これを聞いたとき、1990年代まで上海の虹口区にあった西本願寺が、築地本願寺に似たその独特のユニークな外観からクラブやバーとして使われていたことを思い出した。かつての日本の外地には堅牢な近代公共建築がいくつも残されているが、それ以外で比較的残されていたのが宗教建築なのである。

その後、老朽化した木造の日本住居のほとんどは、ソ連風のアパートに少しずつ建て替えられていったようだ。それは昭和の時代に日本国内で起きたことと基本的に変わらない。

そして、ペレストロイカ以降、大きな変化が起きた。樺太時代の歴史の封印が解かれたことから、サハリンにおける日本の遺構を文化・歴史遺産として保存し、観光資源として利用するという考えが生まれたことだ。

文=中村正人 写真=佐藤憲一

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