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会社員、イタリア家庭料理の道をゆく


畑のなかの広大な敷地に佇む一軒宿。古い農場主の館を改造した建物は、深い霧に包まれて、ますます神々しく見えて来て、一層緊張してくる。恐る恐る扉に手をかけた瞬間、まるで自動ドアのようにすっと扉が開き、そこにはシニョーラが立っていた。

「まあ、あなただったのね!」

招き入れられると、緊張の糸が一気に解けていくのがわかる。ここさえクリアすれば、きっとなんとかなるという自信はあった。この宿の厨房を支えているのは、長年ここで働く近所のおばさんたち。なかでも、最も古株のイリスとは、すでに毎回、旅行で訪れるたびに親しく会話を交わしていた。

当時すでに御歳75歳を迎えながらも、なお、客室のベッドメーキングや清掃の仕事もしていた彼女は、のっしのっしと大きな体のわりには、手際よくシーツも替えて、「あんた、また手ぶらで来たのかい? いい加減、子供つくっておいき!」とからかっては消えて行く。

そして、中庭にある工房に籠ると、ひたすらトルテッリーニをつくり続ける。そう、イリスは、この宿の、いや、カステルフランコが誇るべきトルテッリーニ職人なのだ。

出来栄えよりも大事なこと

いままでは窓の外から遠巻きにしか眺めることができなかったこの工房に初めて招き入れられると、しばらくしてイリスがやって来た。

「おや、まあ、やだよぅ、この子は! まだ子供つくってなかったのかい!?」

そう言って、その豊満すぎる胸で、息ができないくらい私をむぎゅーっと抱きしめた。



そこから先は、工房はおばさんたちの井戸端会議室と化し、なかでもイリスの独壇場。ものすごい勢いでトルテッリーニをつくる手も動かすが、口も動く。そしてイリスが何かを言うたびに、きゃっはっは、と笑いが弾ける。

「なに、旦那を置いて来ただと! いま頃、浮気でもしてんじゃないのかい?」から始まって、「あんた、ここのシニョーラがどうして独身を貫いたか知ってるかい? そりゃ、こんな広い農園をひとりで相続してごらんよ……」と止まることを知らない。

こっちはイリスのトルテッリーニをどうしても習いたくてここまで来たというのに、トルテッリーニの「ト」さえ口を挟む余地がない。仕方がないので、必死で真似ようと、彼女の手元を目で追うのだけど、これまた早すぎてついていけない。

イリスが5個仕上げる間に、私は1個しか巻けないうえに、同じトレイに置くと、明らかに私のだけが不恰好。これをこのままお客に出していいはずがないと思い、「イリス、巻き方これでいいの?」と言いかけても、「いいの、いいんだよ。それより、あんたいまの話、聞いてなかっただろう……」と、私がどうつくろうがお構いなし。



こんな時間を過ごしているうち、不思議と美しいトルテッリーニをつくることより、イリスたちの会話についていくほうが、大事なことのように思えてきた。そして、いつのまにか、イリスのトルテッリーニを盗もうなどという気は、微塵もなくなっていた。

こうして由緒正しき宿の、あの憧れのトルテッリーニを、巨匠イリスと一緒に、同じ話題で笑いをともにしながら、同じ空気を吸い、同じパスタ生地を巻いている、ただそれだけでものすごく名誉なことに思えてきたのだった。

文=山中律子

デルタゾマツダ
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